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一泊旅行に参加して
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市丸 信行
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序章
八面山に行くためにバスに乗ってまもなく「お願いがあるんですけど」と河原さんにいわれた。「できることでしたら」と前置きして頼まれたのが、今回の
レポート書きである。何か頼まれると、自分のような者でも、何かのお役に立てるのならという気持ちが働いて、ついつい二つ返事で引き受けてしまう。
けれど何か書いてほしいと切り出されたときには、しまったと思った。
人前で恥をかき、汗をかき、頭をかいたり、背中をかいたりするのは得意であるが、ものを書くのは苦手だからである。しかし思い出の一端でも
書きだせば、何か書けるのではないかと考え、書き始めることにした。しかし、いったん書き始めると、後はどうなるかはわからないので、その点は
ご容赦を。
第1章 思い出
思い出は蓄積されるので、リュックにつめて担いでみたら、「重いでー」(思い出)といいたくなるほど、思いがけない量になってしまう。そして誰かに
担いでもらって大変だろうと考えるのが「思い」(重い)やり。
元来泊りがけの旅行は、枕が替わって寝られなくなるので苦手である。ほかの人と相部屋になり、その人がいびきでもかこうものなら、暗剣殺にあったような
ものだ。さぞいい気持ちで寝ているのだろうと思うとたまらなくなる。そして二人3人といびきをかきだせば、「いびき、二ひき、三びき」と
ダジャレまじりの数え方をして、気をまぎらわせたものである。
そんなことを繰り返すうちに、夜は寝られないものとして、どうやってやり過ごすかと考えるようになる。図書館から借りてきたテープやCDを持ってきて
聞き出すと、わりに寝られるようになり助かっている。
山は学生時代、鍛錬遠足では四王寺山や宝満山に登った。山岳同好会主催行事で、基山、雷山、背振山に登り、夏休みには7月の終わりころ、九重に
2泊三日または3泊四日の予定で行ったものである。
坊がつるキャンプ場をベースにして、希望者だけ朝の3時に起きだして大船に登り、カンパンを食べながら日の出を見た。それから下山してごはんを食べ、
弁当をつめ、今度は久住山だ。夜になるとキャンプファイアーを楽しみ、翌日坊がつるから九重登山口まで下りてくる。
3泊のときには平治岳に行ったが、その夜から台風の余波を受け、翌日は雨に降り込められながら九重登山口まで下りてきた。
そんな思い出があるので、2003年に九重に行くと聞いたときには、なつかしさも手伝って参加することにした。時は9月20日、21日。二十日には
自民党の総裁選の投票があり、戦前の予想どおり、小泉さんが総裁に選出されたことをバスのラジオで知った。旅館では、先場所優勝し、その場所の優勝に
横綱がかかった魁皇が、優勝どころか負け越してがっかりしたものである。
がっかりついでに、その夜の宴会のあとの二次会のときに、2000年7月9日に連れて行ってもらった大根地山で、途中動けなくなったものは久住は
無理だといわれた。かくして九重花公園などの山ろくを巡る別コース組に入ることになった。まさに「苦渋」(久住)の選択である。
しかし翌日の山ろくめぐりでは、初めて炭酸水を飲んで、ぴりっとした感じを楽しんだ。花公園では井上さんのご主人に、園内の植物のひとつひとつを
懇切丁寧に教えてもらったり、あまりに暑いので木陰でかき氷を食べたりして、けっこう楽しむことができた。かき氷は昔は小さな入れ物に山盛り入って
いたので、必ずこぼしていたものだ。しかしこのときはけっこう深い器に入っており、先割れスプーンのようなもので食べるので、外にこぼす心配がないのが
何よりだった。ふと平成のはじめころ、車の中で食べたことを思い出したりもした。
そんな風に過ごした後、久住登山組と待ち合わせのため牧の戸に行った。当日の久住山はガスが深く風も強かったようで、久住に登った人にかき氷を食べた
話をしても信じてもらえなかった。けれども無理もないと思った。よく考えてみると、かつて九重に行ったのは7月の終わり。いわゆる梅雨明け直後で天候の
もっとも安定した時期である。9月の二十日すぎに行くのは初めてで、大変な思いをした話を聞かされると、九重に行かなくて良かったと
思ったものである。また大人は皆疲れ果てていたのに対して、子どもたちは元気で、子どもの体力はすごいものだと思った。
その翌年は福盲野球部OB会と重なり行かれず、あくる年の阿蘇には参加させてもらった。5月14日と15日で、初日の14日で忘れられないのは、
お昼に食べたみそ田楽と、地獄温泉である。
みそ田楽は串の大きさに圧倒されたのと、ひとつの串に刺されている量の多いことにも驚かされた。串だんごぐらいしか食べたことがない者としては、
食べ方にも大いに面食らったものである。みそ味は嫌いではないし、お腹も空いていたので本当においしかった。
地獄温泉は男女混浴と聞かされていたので、内心どきりとしていた。しかし現実は「看板にいつわりがあった」、というのはあさはかな読みかた。すぐに
看板どおりだとわかってきた。つまり、「女の人はだーれも混(来ん)浴」というわけ。
その日の夜のことである。これを説明するには前置きが必要なので我慢して聞いてください。
2005年3月20日10時53分、福岡西方沖地震が発生し、研修会のために提供されていたマンションの9階でわたしはこれに遭遇した。
しんあいホームのお世話になっていたころの昭和49年にも、伊豆半島地震を経験している。しかし3階以上にいて遭ったことがないので、9階ともなると
こんなにも揺れるのかと思わされた。その揺れ方は振幅は小さかったが激しい横揺れで、こわくて机にしがみついていた。遅れてやってきて、座った直後に
地震に遭った後輩は、気分が悪くなったといっていた。
その後、地震の夢をよく見る。あわててラジオをつけても地震のニュースなど何もやっておらず、夢と知ったことも2、3度ある。1ケ月後の4月20日にも
地震でゆり起こされていたし、「5月20日にはもっと大きいのが来る」という噂に振り回されていたからかもしれない。
泊まった阿蘇の宿は、人が横を通ると揺れを感じていた。早めに休んでからしばらくしてから、同室の人が帰ってきたとき、その揺れを地震と勘違い。
びっくりして飛び起き、ついでに「地震か」と思わずいってしまい、恥ずかしい思いをした。軽いPTSDにかかっていたのかもしれない。
福岡西方沖地震で気分が悪くなった後輩に、地震の夢を見ることがあるか聞いてみたら、やはりあるという。今回の中国の大地震でも、かなり後になっても
PTSDに悩まされる人が出てくるのではないかと思っている。
今度の四川大地震は、福岡西方沖地震など足元にも及ばないような規模の地震だし、また耐震構造の建物などないし、格差も大きいので復興には時間が
かかることだろう。
さて本題に戻ろう。
そんな風に起こされると今度は眠れない。日課にしている聖書を読んで翌日の無事を祈り、横になってヘッドホンのテープを聴いているうちに、いつしか
寝入ってしまったようだ。その後はよく眠ることができ、快適な気分で15日を迎えた。
天気はよく体調もよかったけれども、杵島岳は山頂までは登ることができず残念だった。しかし草千里で馬に乗れたのはよかった。
2008年に行われた九州地区の同窓会では、半ばの二日目を阿蘇で過ごし、やはり馬に乗った。そのときは途中、トイレ休憩が入ってしまったが、
やまぼうしの例会のときはそれもなく、快調にコースを回れて気分がよかった。
2006年には8月19日から20日にかけて、由布院にでかけた。耳からの情報では「いふいん」と聞こえたが、実際は「ゆふいん」だそうで、やはり
文字を通して覚えることは大切だ。
その年というか、前年の秋からの朝の連続テレビ小説は「風のはるか」で、湯布院が舞台となっていたので親しみを覚えていた。ところが一泊例会が
近づくころ、台風接近のニュース。例会ははたしてあるだろうかと心配していたら、予定通りあったので驚いた。
台風の余波なのか、それほど暑さも感じず、鶴見岳はどうにか登ってくることができた。「ここで一杯やったら、これがホントの鶴見酒」と吉永さんが
いって、うけにいっていた。
ワイン工場では皆なんだかんだいいながらワインを試飲したが、井上会長が飲みすぎて、その夜体調を崩したのは気の毒だった。
山の苦手な者は由布院の町を馬車でめぐった。西部開拓時代のアメリカ人はこんな旅をしていたのかと思わされたものだ。昼食のために立ち寄った松尾
割烹店は、なんと馬車を御しながら説明してくれた人の実家、人の縁とは思いがけないところにあるものと、つくづく感じさせられた。
この年の高校野球はやたらおもしろく、極めつけは準々決勝の智弁和歌山対帝京戦だ。4点リードされた帝京が9回表に8点をあげて大逆転。ところが
智弁和歌山も粘り、9回裏に5点を奪い、13対12のサヨナラ勝ちをおさめた。
私たちが由布院にでかけた両日に、準決勝と決勝戦が行われたが、その智弁和歌山も準決勝で姿を消し、決勝は3連覇を狙う駒大苫小牧と
早稲田実業が戦った。今、楽天に行っている「マー君」こと田中将大と早稲田大学に入った斉藤祐樹の投げ合いはみごとで、われわれが由布院から
帰った日には決着がつかなかった。翌日の再試合で、4対3で早稲田実業がかろうじて勝って優勝した。
去年は5月19日と20日に唐津と吉野ヶ里遺跡に行った。唐津には友達がいるが行くのは初めてだった。石垣を這い登るように登って行き、電車が
止まるような衝撃とともに止まった唐津城のエレベーターが印象に残っている。またどなたかが持って来てくださったスナックえんどうがおいしくて、
一皿全部食べたのではないかと思う。
20日には吉野ヶ里遺跡に行き土笛を作った。いくら吹いてみても未だに満足な音が出なくて、本当に残念に思っている。
第2章 一期一会
今年は5月17日、18日に八面山に行った。八方から眺めて見ても、同じ姿なので八面山という。
気持ちはあっても身体が思うように動かない、いわゆる「登りたいのはやまやまなれど」の組は、大池のまわりを散策した。那須さんのご主人と膝を
痛められた高松さんの奥さんに、ガイドとして井上会長、田丸さん、河原さんの奥さんの計6人で弁当をいただいた。その後、勝手に小八面山と名づけた
小さな山に登った。下るのはこわくて、山は登りより下りが大変だと思った。
そのあと、宿舎の八面山荘に歩いて戻る途中、田丸さんは山菜をとっておられたが、野いちごをみつけて分けてくださった。思いがけない形でいちごに
ありつくことができ、まさに「いちご(一期)一会」である。絵を描いたことのない者にはわからないことだが、いちばん簡単に描けるのが
いちごだそうである。1個しか描かないところがミソで、これも「いちご(1個)一会」。
本来は戦国時代に確立された茶道の方でいわれることばである。あの時代、だれもいつ戦火で死ぬかわからず、このことばのもつ意味合いが大変深かった
ことがわかる。
第3章 新企画
(1)月見の野点
宴会の後、古野さんが提供して下さった饅頭とともに、ベランダで月見をしながら抹茶をいただいた。このときにフルートを吹いてほしいと
いわれていたので、月にちなんだ曲として「十五夜お月さん」「コロラドの月」「月見草の花」などをやるつもりでいた。しかし、いつやっていいのか
わからないうちに、野点は終わってしまった。
このあとに続くカラオケの前にフルートを吹くことになった。九州ゆかりの曲として、宮崎康平が作った「島原の子守唄」や「芭蕉布」、「五木の子守唄」
などをやったが、後になって「坊がつる讃歌」を忘れていたことに気づき残念だった。
(2)カラオケ
カラオケといってもカラの風呂桶ではない。オーケストラをバックに、歌手になった気で歌うものだ。
昭和46年ごろ、開局して間もないFM福岡で、土曜日の3時に「サウンドインナウ」というコーナーがあった。そのころヒットしていた、例えば
小柳るみ子の「私の城下町」のような曲を、最初は小柳るみ子の歌入りで紹介したあと、歌を抜いた、いわゆるベ−スとコードとリズムだけが入った
正真正銘のカラオケを流すのである。そんな曲を集めたカセットを持っていたが、いつしかどさくさで無くしてしまい、本当に惜しいことをしたと
思っている。
昭和52年ころ、急にカラオケがもてはやされるようになった。しかし当時のものにはメロディーが小さく入っているので、本当のカラオケというわけには
いかない。
カラオケは嫌いではないが、いろいろ困ることがある。
まず最初に、歌いたい曲があるかどうかがわからない。仮にあったとしても、アレンジによっては歌いにくいものがある。十八番の「あざみの歌」は、
どうかしたら2番しか入っていないこともあるのだ。
いちばん困るのはキーの高さの違うものがあることだ。どこかで「私の城下町」を歌ったとき、4度も低くてとても歌いにくかった。しかたなく
オクターブ上げて歌ったら今度は高すぎて、上の音を出すのに苦労したことがある。
このようにカラオケは好きだけど、苦い思い出もある。どこかのスナックで渡哲也の「くちなしの花」を歌ったら、採点つきの機械で、30点しか出なくて
盛大に笑われたものだ。今回同じ曲を歌ったけど、ファンファーレが鳴り、92点も出た。何だか仇を討ったような気になり、溜飲が下がった。
(3)ゲーム
翌日近くの公園で古野さんの指導でゲームをやった。ジャンケンゲームもあったが、おもしろかったのは6人ひと組が機関車のようにつながって前に進む
ゲームだ。
前には全盲の人、健常者は目を閉じる。一番後ろの人だけが目をあけて、進み方を前に人に指示するのだが口は使えない。肩の叩き方で、直進・右回り・
左回り・停止を、一番後ろの人から順々に前の人に伝えるのだ。そして目標物をぐるっと回って、どの組が早くゴールに戻るかを競うものである。
反応が遅かったり、うまく指示が伝わらず、ずっと一方に回りっぱなしになったり。いったいどのようなことが起きたのかわからないが、迷って戻って来ない
グループがあったりして、大笑いした。
つぎに、すいか割りを野外ステージの上でやった。目隠しされて何回かぐるっと回ってから、周りの人の声に導かれて、ここと思われるところでひっぱたく
のであるが、見える人も見えない人も同じ条件でやるので結構楽しめた。すいかに上手に当てる人も出てきて、すいかの形が崩れだしたようで、そっと
叩くように田丸さんが叫んでいた。その声のそばから、真心をこめてというか、恨みをこめてというか、思いっきりひっぱたくものだから、これ以上崩れて
「たまる」(田丸)ものかと怒り出す一幕もあった。
(4)野外ステージショー
野外ステージは、すいか割りができるほどに広いようで、こんなところで「第9」をやったらいい音が出るのではないかと話していた。すると会長が
せっかくだからフルートを吹いてほしいといいだした。
ブラスをやる人は大きな音を出さないといけないので、残響のない野外で練習するけれども、このステージはマイクを使ったときのような残響効果が
あった。
この時期になると吹きたくなる「みかんの花咲く丘」に始まり、後はリクエストをとりながら進めた。演奏した曲は、ビートルズの「イエスタデイ」
(昨日のうちからやればよかった)、最後まで聞いたことがないのでよくわからないが、喜多郎の「シルクロードのテーマ」、「コンドルは飛んで行く」
などだ。サイモンとガーファンクルが歌ったころ、この曲を買いにレコード店に行ったら、どこも「コンドル」(混んどる)というくらいにヒットした
曲だ。
まさにフルートの野外公園のひとときだった。
第4章 むかでのお客さま
本章に出てくるむかで(百足)の小噺をひとつ。
むかでにお使いを頼んだところいつまでたっても帰ってこない。どうしたのだろうと玄関に行ってみると、まだそこにいる。「おい、何やってるんだ」と
いったら「下駄履いてます」。
帰りのバスの中でのこと。
誰かの荷物か服にくっついてバスに乗り込んだのか、そのむかで君。お世話になるからには、挨拶くらいしておこうと思ったのかどうか、
姿を見せたところを見咎めた相手が悪かった。むかでをもっとも苦手とする人で、大変な騒ぎを引き起こすことになってしまった。
後から考えてみたら、バスに乗って間もなく、首のあたりがムズムズ。こちらは8月の槍(ぼんやり)なので、後ろの人が何かしているのだろうと思い、
まさかむかでが這っていたとは気づかなかった。それが幸いして刺されずにすんだ。
他の人も誰も痛いと騒がなかったところをみると、刺されてむかで(百足)ならぬ深手を負い、その日の天気のように晴れ上がる(腫れあがる)人が
いなかったのは幸いだった。
かのむかで君、大騒ぎになってからあっちこっち逃げ回っていたようであるが、5分もしないうちにつかまえられ、御用となってしまった。
終章
夜は大部屋だったので、寝られないだろうと覚悟を決め込み、ヘッドホンをかぶって寝ることにした。それがよかったのかもしれない。
また聞いていたのが新田次郎の「孤高の人」。一人で登山していた人が、どうしてもいっしょに登りたいといってきかない人と組み登ったところ、彼の
無鉄砲さに巻き込まれ、ふたりとも犠牲になってしまう。その小説の最後の6時間あまりを聞いていたので、周りの様子には気づかなかったのが、
幸いしたのかもしれない。予期に反してよく眠れた。
新田次郎は気象庁に勤めていたので、彼の小説には気象にまつわる話がよく出てくる。とりわけ昭和63年の大河ドラマにもなった「武田信玄」の
川中島のくだりなど、この人でなければ書けないのではないかと思わされたものだ。
今回宿に戻る途中にいちごを食べて、はからずも思い至った「一期一会」。このことばは大切にしなければならないと思わされた。出会いを大切にしなければ
ならないとの意味合いだと思うけれども、宴会のときに横に座った井上さんから、バードウォッチングの話を聞かせてもらったり、ほととぎすの託卵の話を
聞くことができてよかった。
この時期は朝早くから小鳥のさえずりで目をさましたり、若葉の中を薫風に吹かれながら、山歩きできるのは本当にすばらしいと思う。旅行はやはり
この時期に限るのではないかと感じさせられた。
新緑とか若葉というのは貴重なもので、このような環境は大切にしなければならないし、人との出会いも大事に考えていかねばならないと、改めて
思わされた旅であった。
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